ケイの転生小説 - 迷宮を
 『学徒番号(仮発行):8097669006
 固体名:夕闇 舞
 レベル:壱 
 種族:人類
 階級:隷奴
 筋力:1
 敏捷性:1
 知力:2
 魔力:8
 魅力:4

 学徒迷宮での生存可能性 0.6%』



 じめじめと湿った硬い石の床を、夕闇舞は一人歩いていた。
 極限の緊張にうら若いその体を強張らせながらも、しかし単調に続く迷宮の景色は少しづつ彼女の集中力を殺いでいく。
 それは彼女の命が徐々に削られていくことに等しい。

 初心者向けとされるこの「渋谷特区松涛迷宮」ではあるが、未熟に過ぎる迷宮学徒見習いに過ぎない舞には十二分に死の危険があるのだ。

 艶やかな黒髪をばっさりと肩口で切り揃えた若干14歳の少女。それが舞である。
 体の線は未だ女の成熟を経ず頼りなく、腰に提げた片手直刀の柄にかけられた手は僅かに震えている。
 少女の身長は145cm。
 同年代では平均的と言えた。
 特に筋力で優れるわけでもなく、特殊な訓練を積んだわけでもない。
 随所に魔力増幅の護符を仕込んだセーラー服を身に纏った立ち姿は可憐な少女のものであれど、迷宮に挑む学徒としては危うきに過ぎる。
 もっとも、魔力の扱いなど誰からも教わったことがない舞にとって、それはただの薄手の衣服に過ぎない。

 いつ物陰から敵対生物が現れるとも知れないその恐怖。そして現れないかも知れない意識の弛緩。
 迷宮に潜るものは、まず己の心の制御法を習得せねばならない。

 (いっそ、今その陰から出てきて・・・)

 望むとも望まぬとも分からぬ舞の奇妙な懇願はしかし叶えられず、少女は安堵とも失望とも取れぬため息をついた。

 (もう、先の子は辿り着いたのかな。お母さん、お姉ちゃん、帰りたいよ・・・)

 少女は母の優しい声、柔和な表情を思い出し、そしてこの学園に在籍している姉を思い泣きそうになる。しかし母と姉がその声に答える事はない。この死地に、彼女を送り出したのは、他ならぬ母であるのだから。姉もまた、この迷宮に私の前に潜り込んでいたのだ。

 『立派な学徒となって、御國の為に尽くすのよ』

 母は目に涙を浮かべ、そう言って舞たちを送り出した。
 日本国最下層、隷奴の地位にある夕闇の家に生まれた茜と舞が少なくとも人並みの幸せを得るには、齢16を迎えるまでに、少なくともレベル伍 を超えて国に士官する必要がある。
 もともとの素養が恵まれたわけでもない茜と舞にとって、それは分の悪すぎる賭けに過ぎない。彼女たちと同じ境遇の多くの学徒が、毎年その若い命を徒に散らしているのだ。
 だが茜と舞に他の選択肢はありえなかった。
 日本国の法律によれば隷奴は人ではない。
 人の為の蓄財、つまりは家禽である。

 何人もの男達に合法的に慰み者にされ、烈しい行為の果てに受胎能力をすら失いかけた母親から茜と舞は生まれた。
 母親は何度も幼い茜と舞の首を絞めて殺そうとしたという。
 娘にまで自分と同じ地獄を味あわせたくない。
 しかし無邪気に自分を見つめる幼い瞳に遂に我が子を手にかけることは出来なかった。

 『殺してあげられなくてごめんね』

 それが母の最期の言葉だった。

 松涛迷宮の一階層。
 ただそこを踏破することが、『学閻』の入学試験である。
 だが学徒を目指す見習い達の半数が、この試験で死ぬのだ。

 彼らの多くは開放を願う隷奴階層である。
 同じく多くが学徒を目指す支配階級の規族階層と違い、隷奴の多くは何ら事前知識を持たずに迷宮に挑む。
 もちろん訓練もほとんどは我流だ。
 今日初めて持たされた武器だけをその手に、頼りげない足取りで迷宮に潜り、そしてほとんどが食われて死んでいく。

 舞もまた、生き残るためには死地から這い上がらなくてはならない。

『げぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!』
 
「!?」

 びくんと舞の体が震える。
 身の毛のよだつ恐ろしい声。
 いやそれは声とは呼べない。
 ただ人の神経を逆撫でする獣の哄笑。

 「来た!来ちゃった・・・」

 舞は慌てて腰のポーチから端末を取り出す。
 端末は敵対生物の接近を感知して液晶に対象の情報を表示していた。

 『敵対生物データ
 コード:甲-0000023
 呼称:地獄蟻
 カテゴリ:甲蟲種
  レベル:壱
 保有スキル:濃酸散布』

 チャキっと音を立てて慌てて直刀を鞘から引き抜く舞。その構えはぎこちなく十分以上に腰が引けている。
 何せ迷宮内の初めての戦闘なのである。
 だが敵は待ってはくれない。

 迷宮内の曲がり角。
 舞にとっての四角から、それは飛び出してきた。

 「くぅっ!」

 『げぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!』

 なるほどそれは確かに蟻に似ている。
 昆虫の様な節くれだった身体。
 大きな目。
 張り出した顎。
 幾本もの脚。
 それは確かに蟻に似ている。

 その大きさが2メートルもなければ、そして二足歩行していなければの話であるが。

 「お、大きい」

 少女の唇から恐ろしげに言葉が漏れる。
 敵はそれを面白がるように、おそらく実際には全く本能的に、四肢の先についた鋭い鉤爪を舞に振り下ろす。

 「いやぁっ!」

 反射的に飛びずさる舞。
 短いスカートが肌蹴け、白い素肌と下着が見えるのも構わず、舞は必死に地獄蟻の攻撃を避ける。
 初めての迷宮。
 恐ろしい怪物。
 舞はそれほどの運動をしたわけでもないのにぜーぜーと息を荒くする。
 薄い胸が不規則に膨らみ、心臓がばくばくと悲鳴を上げる。

 (落ち着いて。落ち着くの。とにかく落ち着くっ)

 舞は自分に言い聞かせる。
 兎に角落ち着くことだ。
 今の攻撃だって何とかかわせた。
 決して見えないわけではないのだ。

 ぎちと掌が鬱血しそうなほど直刀の柄を握り締める舞。
 あの怪物よりも先に、この直刀を叩きつければ。 

 舞がそう心を決めた時。
 しかし地獄蟻は突然に大きく仰け反り、節くれだった腹をぷくりと膨らませた。

 「え?」

 ぶしゃああああああああああああああああああああ!!!

 地獄蟻が突然、その口から霧状の濃硫酸を吹き出したのだ。
 舞はなす術なく全身にその噴霧を受けてしまう。

 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 絶叫を上げる舞。
 その時端末がけたたましいアラート音と共に合成を音声を発した。

 『敵性生物の攻撃に致命性が認められました。「装備:学徒制服」の固有スキル「レジスト(偽)」を発動します』

 その時、舞の制服が光輝く。
 地獄蟻の攻撃を受けたはずの舞はしかし無傷で、代わりに舞が着る制服がぼろぼろと破れていく。

 「!?」

 咄嗟に身体の前面を隠す舞。
 まだ薄いその未成熟な身体は、白い下着と薄手のT-シャツを残すだけとなってしまった。
 ブラをつけていない膨らみがシャツにうっすらとした陰影を作っていた。

 舞は理解していた。
 もともと愚かなほうではない。
 生まれに比して考えれば、驚異的な学習能力を持つ娘だった。

 攻撃を受けて制服が破れたということは、あれが一回限りの加護であることは間違いなさそうだった。

 (つまり、もう一度同じ奇跡は起こらない)

 舞はその事実に心臓が止まりそうになる。
 だがそれでも、命にすがりつく舞の本能が恐怖を何とか押さえつけた。

 (生きて帰る。必ず生きて母さんを解放する・・・!)

 それが舞の夢。
 舞をこの死地に来させた最後の希望だった。
 地獄蟻が舞に向かって飛び掛り、そして舞は死んだ。