ケイの転生小説 - 異世界転移したら4
 何かとてつもない恥ずかしさの後に俺はルチェルの瞳の奥底に沈んでいくような錯覚がした。



「ルチェル? まだ食べてないの?」

 ルチェルの体はハクとキスする時より縮んでいた。
 場所も全く森の中とは違う。
 どこかのボロ臭い家の中、ルチェルは小さな手を使って本のページを捲っている。
 奥の部屋からは優しげな女性と男性の声。

「ルチェルは本を読むのが好きなんだ。そっとしておいてやれよ」

 ルチェルの見ている本の中身は悪い魔法使いに追われた少女の絵が描かれている。

「本好きの女の子なんて貰い手に困りそうだわ」

 真剣にその本を捲るルチェルは次のページに描かれた絵を見て顔を歪ませる。
 少女が悪い魔法使いに囲まれて連れ去られようとしていた。

「今からそんな心配を? ゆくゆくは学者か魔法使いになれるかもしれないよ」

 次のページでは1人の煌びやかな男が登場し、悪い魔法使いをやっつける。
 ルチェルの顔は輝いていった。

「本気ですか? 本を買うお金もないのに?」

「商人とは友達なんだ」

 そして最後のページには少女と男が森の中で抱き合うところで終わっている。

「商人は誰とでも友達になるものよ」

 ルチェルが本を閉じたとき、母親がルチェルの前に立った。

「読み終わったならご飯を食べますよ。……お腹減ってないの?」

 女に抱えられたルチェルは頷く。何とも愛らしくそして少し何かが足りてない感じの返答だった。

「あなたルチェルに何か与えた?」

「何も。というか、今朝一番に歩いて帰ってきたばかりじゃないか。隣町で酒を飲まずに帰ってきたのは全部ルチェルのためだぞ?」

 男も立ち上がってルチェルに近づいてくる。
 中肉中背の男はまだ若く、ルチェルを抱える女性とはとても絵になる男だった。

「そうね、あなたはいつもこの子を思ってくれてるわね」

「そうさ。この子が世界の何よりも大切な宝だ」

 少し呆れと嫉妬の綯い交ぜになった視線を男は受けていた。
 そんなことに気がつかない男はルチェルの頬に手を伸ばそうとしたとき……、
 古びた家にはよく通るノックが響いた。

「誰かしら?」

「さあね、村長か誰かが税金でも寄越せって話かな」

「いやよ」

「分かってるよ。なんとか断るさ」

 男が出口に向かうとそこに立っていたのは白髪交じりの老人と1人の少女だった。

「村長、これはこれは……で、そちらのその子は?」

 老人のほうは男と面識があるようで少女だけが異質に浮彫となっていた。

「この者は古より参りし 魔女(ウィーラー)にあらせられる。この家に一晩置いて頂けないだろうか」

「村長?」

 男は怪訝な顔で村長を見つめる。
 黄色く濁った白目はいつも通り。しかし、焦点がどこか曖昧で村長はいつも自慢げに持っていた杖を持っていなかった。
 そのことに気づいた男は少女に視線を移したとき、白い靄が男の顔を通り過ぎた。

「あなた? どうしたの?」

 ルチェルを置いて様子を見に来た女は男の変わり様を見て一瞬で異変に気づいた。

「ま、魔法つ――」

 声は最後まで発せられることなく女も同様に霧に包まれる。
 ただ部屋の奥でそれを見ていたルチェルは何が起こったのかわからず、またこの日から始まる地獄を知る由もなかった。

 ルチェルの家に新たに加わった少女は白髪にブルーの瞳を携えた異邦人だった。
 小顔の童顔で見た目には幼女にさえ見える。
 知性と聡明さを思わせる双眸は憂いをにおわせる眉の下に携えられている。
 冷えた視線は見る物全てを射殺すように何も映していない。
 小さな唇で少女はルチェルにただ舌打ちをしただけだった。

 ルチェルは彼女が家に来てから父と母の豹変を受け入れることができなかった。
 まず、ルチェルが食事を与えられることはなくなった。
 なぜか後からやってきた少女に食事の全てが振る舞われ、ルチェルの家族は一杯の水だけの食事になる。
 優しかったルチェルの父と母はあの日を境にルチェルに話しかけることはなくなっていた。

 ルチェルもこの少女のせいだということは幼心に気づいていた。
 それだけでどうすることもできない。
 やがて少女は父を連れてどこかに出かけた。
 しばらくして少女が1人で戻って来て父がいなくなると、母は声もなくいつも涙するようになる。

「次はお前だな」

 ルチェルは少女のその声を聞いた次の日に母が消えたことを知った。

 悪い魔法使い。
 そのイメージがルチェルの中で少女に纏わり付いた。
 少女は母と一緒に帰ってこなかった。
 それでも待てば帰ってくると信じたルチェルの家にやってきたのは黒い布を被った臭い男たちだった。

「ホントに何にもねえ村だな」

 戸棚をひっくり返し、ベッドを漁り、テーブルを蹴り飛ばす。
 男たちは一通り荒らした後にルチェルに視線を向けた。

「このガキしかいねえのか?」

「あの女が残していったんだろう。こんなガキ金にならねえからな」

「どうするよ?」

「殺してもいいだろうが、肉にして喰った方がマシかもな」

「違えねえ」

 まるで抵抗する余地もなくルチェルは軽々と男の肩に担がれた。
 家を離れるのは怖かったし、涙も出たルチェルだったがまだルチェルは心の底で悪い人から救ってくれる男を信じた。

「いやぁああ――」

「いたい、いたいぃ――」

 絶叫や悲鳴が起こる人影の集団に近づくとルチェルはとうとう堪えていた堤防が決壊したようにさめざめと泣き出す。

「おお、やってるやってる」

 凄惨、陰湿、狂気、その全てがそこにはあった。
 中央の土鍋に投げ込まれるのは全て人間のそれであり、斧や鋸で切り落とされていくのは生きた村人の四肢だった。
 辺り一面は生臭い独特の臭気と狂乱で満ちており、中には腕を切り落とされて笑っている者までいた。

「その鍋にこいつを最後に入れようぜ」

 放り出されたルチェルは一瞬息が詰まるのを感じた。

「なんだそのひょろひょろのガキは」

「結構美人になりそうじゃねえか」

 げらげらと笑う男たちに見下ろされてルチェルは涙ながらに起き上がり走ろうとした。

「仲良くやろうぜ嬢ちゃん」

「ひっぐ……」

 もはやここまで来るとルチェルの精神力は並の子供とは違っていた。
 何とか泣くまいとして真っ白の頭の中でただ煌びやかな男が助けてくれると信じ続けていたルチェルはある意味では良い方向に壊れた。
 もしここで男たちの 顰蹙(ひんしゅく)を買うように泣き叫べばそこでルチェルは終わっていた。

 結局ルチェルは縛られて糞尿を漏らしながらも鍋に投げ込まれることはなかった。
 酒が入った荒くれ者たちはルチェルの将来に期待して今の鍋で満足したからだ。
 当然その後に残った凄惨な現場は後の衛兵によって発見され、荒くれ者らは始末された。しかしそこにルチェルの姿はなく、荒くれ者以外に生存者はいなかった。

 どういう経緯か本人にも記憶がない。ルチェルは気づけば魔女としての道にいた。
 ルチェルは毎日鍋に放り込まれる人間たちを見てそして、それを行う人間たちを見て、また自身も鍋の具材として用意されていた経験から時折悪夢を見るようになっていた。

 自分が煮えたぎった湯の中で怨嗟を叫ぶ村人たちの中に放り込まれる夢。
 ルチェルが数えで6歳の時の記憶だった。

 後にその荒くれ者も元は村人たちだったと知るのはまだ先の話である。